迷う人生、されど人は何かの為に生まれた。
迷いながらも、人は自分の答えを探すものです。
しかし、表面的な探求では、きっと大切なものにアクセスすることなく、
人生のすべての時間を使い尽くしてしまいます。
叡智はあればいいのですが、
それはすべての人に与えられるものではなく、
ただ、知能が足りない、私のようなものは、
それでもなんとか、自分なりに知ろうとする必要があるようです。
今回は、チャネリングではないのですが、
つらつらと書き綴ろうかと思います。
だれかのきっかけになれればと思い。
その願いは本心です。きっと。
なぜ、人は、生まれたのか?
よく世界を見渡して見て下さい。
弱いものが食べられ、幸福を得るためにその何倍もの不幸が散布される。
なぜ、そのような仕組みなのでしょうか?
答えはわかっています。
この世こそが、地獄だからです。
地獄、業・・・
しかしそれでも美しい。
本当に美しくすばらしい。
それだけに、われわれは知らなくてはいけない。
美しいとはなんなのか?
チャネリングを行なっていないので、
本当の解答は得られません。
しかし、つらつらと書くことで、どこかに辿り着くでしょう。
美しいとは・・・?
そのことを深く深く、そして、
それとは対照的に冷たい、体温のない心で、
熟考した集団が、大昔にいたとしたら?
それが、なんなのか?
私にもよくわかりません。
いえ、言葉にするには、
そう、たとえば、はばかられることなのかも知れません。
しかし、慈悲をもって見過ごしてくださいませんか?
そう、
そんな方々は思ったのです。
世界を、
すばらしいものにしよう。
この発想は、とても傲慢です。
しかし、否定するものではなく、
ただ、人は、傲慢なものなのです。
それこそが、人と動物の違いの一つともいえる。
理想があるのです。
本来、自然のままにあるものを、
理想の通りに創り変える事を、人は傲慢と呼び、
しかし、
とても崇高なものと認識します。
私達は、その崇高なものに見られている。
それは、意志。
その崇高な意志は、
本当に力強くなり、
そして、本当に、なにか、
根本的な創世記を行なおうとしていると仮定してみました。
私が賢く、そして、
慈悲について深く考えたとするば、
必然的に行なうだろうことを想定しただけ。
それがいまだかつてなかったとは言い切れない。
そして、
そうなったとき、
そのとき、はっと、気づくのです。
そのことを望むがゆえ、そうあるべくして、
そうすることは欺瞞であるため、
本来、本人の心からでないものを排除するため、
そういったことは巧妙にただしく秘匿されます
しかし、ここに辿り着いたのであれば、
これくらいは、知っているのではないでしょうか?
いや、知るキッカケとして、
これは偶然だと定義してもいいと思われます。
だって、
これほど曖昧な言葉なのだから。
それをつむげたのは、
きっと本人の意思。
そうでしょう?
しかし、
それでも、わざわざここに記すことは、
邪な考えなのでしょうか?
わたしには、まだわかりません。
わたしもまだ、すべてを知っていないから。
ただ、
世界は美しい。
この言葉は、それは、たまたまある地域のある時点で生まれ育った、
本当に幸運な私達だらこそ、
そんな身勝手なことをいえるのかも知れません。
われわれは、
いえ、私は、いま、完全に、試されている。
あるべきものに、目をむけて。
あなたに起こる偶然に、体温を感じて。
自戒を込めて。